玄奘三蔵法師のお話より、木彫りの魚についてのお話

  天竺からの帰途、玄奘三蔵法師が四川省の桟道にさしかかっている時、
一人の長者に行きあったりました。
 長者には、まだ年端もゆかぬ幼子がいましたが、その子の母親はすでに亡くなっており、
長者の後添えの継母にたいそう虐められいました。

 ある日のこと長者の不在の時を見計らって継母は、
幼子を高所から川に突き落とし殺してしまいました。
 幼子を失った長者は悲しみに暮れました、
 そして近隣の僧を請して懇ろに供養していました。

 偶然にも高名な三蔵法師がこの近くを通ることを知りまして、喜んで屋敷に迎いいれました。
 長者は三蔵法師一行をもてなす為に御馳走を次々に運びこみましたが、三蔵法師は口にしませんでした。
どうして食べないのか伺いますと、
 「私は長旅でたいそう疲れておりますので、このような精進料理でなく、
できましたら魚肉をいただければと存じます。」 と三蔵法師は言いました。
 それを聞いて家の者は、高名な三蔵法師が生臭ものを食したいとはと驚きました、
三蔵法師は続けて「それもできるだけ大きな魚でないとだめです」と念を押しました。

 要望を聞いた後、要望の食材を探して支度しようと、
大きな魚が運び込まれました。
 すると魚腹の中から継母に川に投げこまれた幼子が元気な泣き声をあげて出てきました。
すると三蔵法師が静かに話始めました。
 「この子は、先の世から死なない宿命を持するが故に大魚に呑まるるといえども死せざるなり」と。
 長者が聞ました。
 「どのようにして魚の恩に報いればいいのか」と。
 三蔵法師曰く、「木をもって魚の形を彫り、これを仏寺に懸け、食事の時にそれを打ち、
もって魚の恩に報ずべし」と。

 これが玄奘三蔵法師の木彫りの魚についてのお話になります。

 

 玄奘(げんじょう、西暦602年 -西暦 664年3月7日)は、
 唐代の中国の訳経僧。
玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(チンイ)。諡は大遍覚で、尊称は法師、三蔵など。
鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
西暦629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って西暦645年に経典657部や仏像などを持って帰還。
以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。
また、インドへの旅を地誌、大唐西域記として著し、これが後に伝奇小説、西遊記の基ともなった。